
御木本真珠店のマークに関して問い合わせをいただいた。「貝M」(カイエム)と呼ばれているこのマークについては『御木本真珠発明100年史』(159頁)に大正2年から現在(平成5年)までの五種類が図示されている(写真①)。一般にこうしたデザインは具象から抽象に向かうことが多いが、「貝M」は時代が下がるにつれて貝殻の表現が精密になってゆくのが目を引く。発案は御木本幸吉で「世界に類のないマーク、世界を相手だから英文字のMを入れた」といい、デザインは図案室の淵江寛が手がけた。淵江寛は明治40年に御木本真珠店に入店した装身具図案家の草分けで、装身具はもとより新聞の広告デザインも受け持った。ミキモトデザインの源流といえる人物である。
この「貝M」はカタログ『真珠』などの印刷物や装身具共箱の蓋裏に箔押しで記され、支店名の変遷とともに時代特定の手掛かりとなっている。装身具自体にも金性と並んで省略された形状の印が打刻されるが、こちらの時系列的な調査は進んでいない。

真珠業界では同じ様に貝殻を象ったマークがいくつも使われていた。それらは貝殻の蝶番(ちょうつがい)の位置が上か下かに分けることができる。図鑑を見ると貝は蝶番を上に描かれていて、口を上に内蔵器官の配置を考えればこの方が妥当だろう。だがホタテガイやアコヤガイなどの場合、図形的に安定感があるのは蝶番を下にした方で、そういう理由からか、昭和39年発行の『真珠ハンドブック』を見ると、蝶番を上に描いたのが御木本真珠店、三輪真珠、鄭旺真珠。一方、蝶番を下にしたのは高島真珠、坂田真珠、北村真珠、田崎真珠、村田真珠、柳貿易とこちらが多数を占める(写真②)。

他の業種で貝殻をマークに使った例として刃物メーカーの貝印株式会社が挙げられる。社名は貝殻が刃物に使われていたことに由来し、貝殻マークは昭和24年に制定されたが、その後、別のデザインに変更されている。こちらも名前そのままのシェル石油は創業者のひとりがロンドンで骨董店を開き、貝殻の売買で利益を上げて事業を拡大、それを原資に石油商を開始したことから貝殻をマークにした経緯がある。蝶番を下にしたホタテガイがモティーフだが、現在のデザインは図像的に朝日の昇る様子と習合しているようで、エネルギーの放射あるいは社業の発展という意味が読み取れるだろう。昭和シェル石油は出光興産と統合、黄色と赤のマークもいずれ見られなくなるらしい(写真③)。

そのホタテガイの貝殻はボッティチェリの名画でヴィーナスを乗せているが、また、聖ヤコブをあらわす事物として西洋では認知されている。聖ヤコブはキリストの十二聖徒のひとりで9世紀にその墓と伝えられる遺跡がスペインのサンティアゴ・デ・コンポステラで発掘されたことから聖地巡礼の目的地として善男善女で賑わうこととなった。コンポステラは海に近く、伝説ではヤコブの遺骸を発見した騎士が海に落ち、引き揚げるとその衣服にホタテガイがたくさん附着していたからということになっている。アコヤガイやイガイには足糸という器官があって岩などに附着するが、ホタテガイがどうやって衣服に付いたのか。解せない話だ。実際には巡礼の記念として大聖堂で貝殻が売られていたらしく、いずれ巡礼者がコップの代わりとして使ったもので、まずはシェラカップのご先祖といったところか。シェル石油が貝殻のマークを選んだ理由としてこうした信仰的な背景があったのではと思いたくなるが、上下が反対(写真④)。 「貝M」から飛躍してしまったが、マークは企業の拠り所で伝統と信頼のシンボルでもある。多少のモデルチェンジはあっても、創業の熱意を受け継ぐものとして大切に扱いたい。
(2021年10月1日)
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