元日はJR参宮線ディーゼルカー・キハ75の窓越しに朝熊山を染める初日を拝み、一年の無事を祈りつつ初出勤。伊勢市から鳥羽の途中には夫婦岩で知られる二見ヶ浦の駅がある。ふたつの岩の間に上る朝日が良く知られたアイコンとなっているけれども、あの景色が見られるのは夏至の頃で、初日の出にあらず。駅の上りホームに破魔矢を抱いた乗客がちらほら。まず禊を済ませてから伊勢神宮に向かう、古式に則った参拝者なのかしらん。
初日の出はやはり朝熊山。標高555メートルで正式には朝熊ヶ岳といい、地元では岳(たけ)さんと呼んで親しまれている。いる、なのか、いた、なのか言い難いが、こういう呼び方を聞くことは少なくなったようだ。山上の金剛証寺は弘法大師空海が虚空蔵菩薩を祀り、真言密教道場としたと伝わるが、現在は臨済宗。
朝熊山に親しみ、その風情を心から愛したひとりが御木本幸吉だった。けれど、朝熊山を三重県の高野山たらしめたい、とか東海の軽井沢にしたいと願って様々な試みを実践してきたことはあまり知られていない。真珠王は観光王にもなりたかったかのようで、たとえば山の上に設けた別荘に大正2年の夏、近畿と中部の新聞記者を招待して、隣接する旅館「とうふ屋」で納涼会を開催、まずはパブリシティ記事でその風光の素晴らしさを喧伝して貰おうとした。メディアの活用に長けた幸吉ならではの催しだ。
別荘は「連珠庵」という名の小庵で、幸吉は大正7年、61歳以降、夏の一~二週間をそこで過ごすことにしていた。毎年、登山すると山上の名薬「野間の万金丹」を子や孫に送り、それが幸吉の無事の知らせだったという。残念ながら幸吉の連珠庵もとうふ屋も万金丹の店も現存しない。それでも山上にはまだ幸吉ゆかりの史跡がいくつか残されている。
まず、朝熊山スカイラインの展望台近くに設置された「御木本幸吉駕籠立場」の石碑。以前に触れたように、幸吉は山上までの足として山駕籠を利用した。朝熊山にはいくつか登山ルートがあるが、専用の駕籠をそれぞれ登山口の集落に預けておいて、必要な時に若い衆を招集して担がせたという。さぞ手当を弾んだことだろう。その駕籠の山上停車場というべき場所は東公園と呼ばれていて、この前で写真を撮るのがお約束だったようだ(写真②)。何度も移設したせいか、石碑の下にある花押の部分が半分以上埋まっているが、今回は見晴らしの良い所に安住の地を得た思い。
金剛証寺の本堂から右手に取ると奥之院への参道。鬱蒼とした木々の左右には大小の塔婆が林立し、異界に向かう雰囲気が漂う。その途中に御木本幸吉墓、と参道入口の案内板にはあるが、肝心の現場には表示がなく、見過ごすかもしれない。九鬼嘉隆の五輪塔の隣なので、その表示板を目当てにすれば良い。墓石に当たる場所には石臼。上に丸い石が置かれ、一目でそれとわかる(写真③)。真珠の円やかさを追い求めた幸吉は、丸いものなら何でも好きといって、紀州の海岸で丸い石を買い集め、愛玩したというから、あるいはそのうちの一つか。その石の下敷きとなっている石臼は側面にほぞ穴が八か所開いている。この異様な形態について、幸吉記念館の準備をしていた頃、粉体工学の先生に問合せをしたことがあって、幸吉の父親・音吉が改良した粉ひき臼ではないかとの推論を得たが、この先は記念館の展示をご覧下さい。
奥之院の脇にある展望台が富士見台で、以前はかわらけ投げに興じることができた。右横にうめ夫人の墓石(写真④)がひっそりと佇むが、こちらも案内板がないので、お見逃しのないように。
Comments