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「半泥子と幸吉」館長のブログ179

 島内施設の配置図で、御木本幸吉記念館は真珠博物館の反対側に位置する。そのせいか、足を運ぶ方は残念ながら多くない。幸吉の一生を様々な資料と共に時系列で展示しているので、時間に余裕のある方にはお勧めしておきたい施設だ。展示室の最後のケースには、知る人ぞ知る、川喜田半泥子の作品が飾られている。(写真① 記念館内の展示)

 二十数年前、御木本幸吉が晩年を過ごした住まいの物置から一個の焼き物が見つかった。脚の付いた器で、果物などを盛る台鉢(コンポート)の形状をしている。(写真②)箱はなく、台脚部分に「寅の春 半泥子」とあった。(写真③)川喜田半泥子の作品とすれば発見だが、なぜ幸吉が所持していたのか。幸吉伝記に半泥子との交流を示す記述は見当たらない。伝来の詳細が明確でない以上、公開するには不十分、ということで、台鉢は博物館収蔵庫で再び眠りについた。

 その後、御木本幸吉記念館収蔵庫に川喜田半泥子が幸吉に宛てた書状が三通(二通は封書、一通は葉書)あることがわかり、解読の結果、この台鉢贈呈の経緯が明らかになった。

 第一(昭和25年1月21日)の封書は、多徳の自宅に御木本幸吉を訪ねた後日の礼状で、久しぶりに訪問して真珠の話を聞いたこと、側近の加藤、池田、鈴木とあったことなどを綴り、志摩に居を構えながら広い視野を持つ幸吉を讃えるとともに再会を喜ぶ気持ちを述べている。第二(同年3月29日)の封書は、自ら台鉢を作り、次回の訪問時に持参する積りでいたが、都合で伺えなくなったので、別便で送ると記され、葉書(同4月14日)はその発送が大幅に遅れたことへの詫び状である。

 川喜田半泥子と御木本幸吉は二十歳離れているが、考えてみれば、同時代を生きた三重県の著名人として交流のないのがむしろ不自然というべきだろう。これで二人の交際が具体的な形で明らかになった。

 川喜田半泥子(1878~1963)は津の老舗木綿問屋の十六代当主、百五銀行頭取を務め、財界人として活躍した一方、陶芸作品が高く評価され、「昭和の光悦」、「東の魯山人・西の半泥子」とうたわれた。

 半泥子の研究拠点である津市の石水博物館に台鉢の画像と書状を送ったところ、本作台脚部分の「寅の春」という朱書きが書状(昭和25年は寅年)と一致しており、半泥子の作品と確認いただいた。兵庫県三田付近の磁器用の土を用い、高くて広い台脚が特徴のコンポート風の鉢に成形し、長石釉をたっぷりと掛け、赤絵で動物と文様を描いている。ざんぐりとした土ものの茶陶が中心であった半泥子の作品のなかで、ひときわ異彩を放つ作品のひとつであるという。

 7.5センチの台脚に 直径22センチの皿を乗せ、全体の高さは12.5センチ。見込みに描かれた動物の頭部と首の筋肉の付き方は馬らしく思える。その一方でたてがみは描かれておらず、尻尾も短く、脚の細さは鹿のようでもあるが、蹄であるはずの先端は枝分かれしており、むしろ鶴のような鳥の脚を思わせる。(写真④ 見込みの画)

 実際に同年2月の日記に「御木本への分にて馬の画かく」とあるから、半泥子は午年生まれの幸吉に贈る台鉢の図柄に馬を選んだことは間違いない。幸吉は馬を好み、蒐集というほどではないにせよ、自宅の調度品にその図柄を選ぶことが多かった。そういう話が二人の間で交わされたとしても不思議ではない。半泥子は馬の画を様々に試し続けるうちに、ふと遊び心が芽生えて、九十翁幸吉の長寿を讃える意図を加味して脚を鶴のように描き、実在しない霊獣を創作したのではないか。そう考えると周囲に見える文様も瑞雲、吉祥を表しているように思えてくるが、もちろん楽しい想像の域を出ない。

 もしそうだったとして、半泥子の諧謔が伝わったかどうか。台鉢を見た幸吉は「変わった馬じゃのう」と一笑したような気がする。


2024年8月2日

松月清郎



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